神風特別攻撃隊

マバラカット飛行場

マバラカット飛行場
マバラカット周辺

 神風特別攻撃隊(特攻隊)は、前のページで書いた「フィリピン沖海戦」での日本海軍(連合艦隊)への支援から始まったものである。その特攻隊が飛び立った場所は、今のクラーク空港と同じ州にあるマバラカットで、その地には“カミカゼ”のモニュメントがある。
 そこはマニラから70キロ近く北上するところで、先のページ(「バターン半島」)で何度か触れた、サン・フェルナンドよりもさらに北の町である。サン・フェルナンドを過ぎるとアンヘレスがあり、その先がマバラカットとなり、それら3つの町は同じパンパンガ州にある。クラーク国際空港やクラーク経済特別区の大部分は、マバラカット域内にある(地図参照)

 そこには「神風」と日本語が目立つ大きめの掲示板があり、そのすぐ近くには大きなボードもあり、そのボードには日本語と英語での説明書きがある。

少し長いが日本語の全文をそのまま次に記す。

 

太平洋戦争における「神風」が離陸したマバラカット飛行場

太平洋戦争における「神風特別攻撃隊」が離陸した「マバラカット東飛行場の西端」がこの地点であり、当時、パンパンガ州マバラカット町に駐屯の帝国海軍第一航空艦隊第201航空隊所属の搭乗員24名からなる特別攻撃隊を、昭和19年10月20日第一航空艦隊司令長官大西瀧治郎中将発令にて編制、関行雄大尉を隊長とするこの隊は、「神風(しんぷう)特別攻撃隊」と命名。

この神風特別攻撃隊を更に「敷島隊」「大和隊」「朝日隊」「山桜隊」の4隊に分けられ、この最初の「神風」攻撃隊各隊は当初13名の搭乗員によって編成され、当日午前10時頃、当地に在るサントス家の前庭において大西中将自身によって任命式が執り行われた。

翌、昭和19年10月21日午前9時、関大尉率いる敷島隊はゼロ戦に250キロ爆弾を爆装、フィリッピン東方海上に展開中と報告された米軍艦船群を目標に、この基地を飛び立つが目標の敵艦船は発見できず、マバラカット飛行基地に帰還せざるを得なかった敷島隊は、翌日から3日間連日、この基地より敵艦索敵に離陸するが悪天候のため発見できずに終わった。しかし、ついに昭和19年10月25日午前7時25分、再びマバラカット基地を離陸した敷島隊は、同日午前10時52分、ついにレイテ島タクロバン沖にて目標の敵艦戦を捕捉、関大尉は最初に空母セント・ローに体当たりを敢行し、後続の永峰飛長も同艦に突入し、これを撃沈した。

関大尉部下の隊員もサンガモン、スワニー、サンティー、ホワイト・プレインズ、カリニン・ベイ、キットカン・ベイらの空母に大破の損害を与えた。この攻撃にはセブとダバオからの「神風」攻撃隊も参加した。

この日の「神風特別攻撃隊」の戦果はマバラカット基地から敷島隊の直掩戦闘機として攻撃に参加した西澤広義飛曹長によって確認・報告された。

関大尉の直卒の敷島隊員は中野磐雄一飛曹、谷鴨夫一飛曹、永峰肇飛長、大黒繁男上飛であった。彼らの諸戦の成功は、その後、フィリッピン、台湾、沖縄、日本本土の陸海軍搭乗員の多くが参加する「神風戦術」として広まっていった。

太平洋戦争中の日本の「神風」は全ての戦争歴史の中で最大の軍事目的の体当たり組織である。外国の侵攻から日本本土を防衛する為に死に物狂いの手段であった。この地に訪れる参拝者の皆様に謹んでお願いします、全ての「神風」と比米軍を中心とする連合軍戦没者に対して永遠に安らかにお眠りください、そして、全世界の平和の為に祈りますと祈念して下さい。

特攻隊員の立像

特攻隊員立像
特攻隊員

 ボードの隣には赤色の鳥居(コンクリート製)があり、そこがボードの説明書にあった平和祈念公園の入り口である。一礼してその鳥居をくぐると、すぐ目の前には大きな台座の上に、パイロット姿の特攻隊員とわかる立像(写真参照)がある。

 先のボードに書かれていた内容の補足となるが、まずは第一航空艦隊司令長官の大西瀧治郎中将について書く。海軍中将の大西が第1航空艦隊長官としてマニラに赴任したのが1944年10月17日であり、それまで軍需省航空兵器総局総務局長であった彼は、海軍が極秘裏に研究開発を進めていた特攻兵器の「震洋(小型特攻ボート)」、「回天(人間魚雷)」「桜花(母機に吊るされターゲット付近で分離される特殊滑空機で翼が小さい)」などのことを知っていた。

 その3年前である開戦時には、“甲標的”と呼ばれた、魚雷2本を艦首に装備した小型の潜航艇もあり、ハワイ真珠湾攻撃がそれの初陣として使われており、太平洋戦争が始まる前からこのような特攻兵器の研究がされていた。1943年のガダルカナル敗退以後にはその研究が進んで種々の特攻兵器が開発され、“捷号(しょうごう)作戦”と同時にそれらの使用を実施すると決定していたようである。

 大西がフィリピンに赴任する前にはすでに、戦闘機が爆弾を抱えての攻撃方法が研究開発のなかで出来上がっていたが、その効力についての確信はなかった。とりわけ揚力を生む翼が、敵艦に目掛けて急降下する際に、その揚力によりスピードが衰えて敵艦へのダメージが減少するであろうと予測されていた。そのため、敵艦の甲板をしばらく使えないようさせるのがせいぜいであろうかというような程度を想定していた。

 特攻、それはパイロットが間違いなく死ぬことを伴った攻撃方法であり、これまでのものとは倫理観が全く違う方法であり、死を前提とした攻撃思想でもあり、強制することはできず、“志願”としてなら可能とする考えが軍部中央にあった。

 日本が開戦するにあたって、米国との国力の差はわかっていたであろうし、それだからこそ、このような戦法までも研究されていたのではないかと思える。そして日本軍の戦況が悪化するなかで、このような研究結果を試すためにそれを実践に移すことが推進されていったのではないかとも思える。

 そのような状況のなかで、強い合理主義の面を持っていたとされる大西は、戦闘機が爆弾を抱えての攻撃方法に傾いていった。彼のその合理的考えは、敵に対する自軍の航空機が圧倒的に足りず、機体の整備も満足にできず、燃料の質が悪く速度も高度も出させず、そして訓練が未熟なのが多い当時のパイロットたちが、撃墜されるためだけに出撃するのではなく、攻撃を意味のあるものにできる唯一の方法が体当たりであるとしたのである。

 このような彼の考えは一見すると、命を軽く見積もっているのではと思えるが、それは逆で、その価値を重く見積もったからこそ、特攻を提議し、実践し、拡大しなければならなかったのかもしれない。

 大西自身はこのような戦法(特攻)を外道だとしてはいるが、当時の日本軍の追い詰められた戦況を鑑み、そして彼のそのような合理的考えも合わさりそうしなければならない、いやそれしかないと考えたのかもしれない。また大西のルソン島行きは、そのような大西だから第1航空艦隊長官として抜擢されマニラへの赴任となったのかもしれない。

 第1航空艦隊とは、海軍の空母艦隊及び基地航空部隊であったが、戦中の後半には基地航空部隊として再編成され、陸上飛行場を拠点として作戦を行う機動部隊である。

 大西は海軍大臣(米内光政)、そして軍令部総長(及川古志郎)に対して特攻を行う決意を述べている。及川からは「特攻作戦は中央からは指示しない。しかし現地部隊で自発的に実施することに対しては、中央は敢えて反対せず、黙認の態度をとる」と述べ、それを受けての大西は「中央からは何も指示をされないように」と希望したという。

 このような背景があり、そして大西の発意により、彼はここマバラカットで着任から3日後の10月20日に特攻の発令をしたのである。その日はまさにマッカーサーのレイテ上陸である。

 そこで第1航空艦隊の主力戦闘機隊である第201航空隊所属の搭乗員24名からなる特別攻撃隊を組織編制し、特別攻撃隊全員を集めて次のような訓示を大西は垂れている。

「日本はまさに危機である。しかもこの危機を救いうるものは、大臣でも大将でも軍令部総長でもない。・・・それは諸士の如き純真にして気力に満ちた若い人々のみである。従って、自分は一億国民に代わって皆にお願いする。どうか成功を祈る」

大西瀧治郎の割腹

 それから10ヶ月後の1945年8月16日、つまり玉音放送のあった8月15日の翌日、大西は辞世の句「これでよし 百万年の仮寝かな」を残し、渋谷区南平の官舎で介錯なしの割腹をして果てている(享年54歳)

 介錯がなしの割腹は、すぐには死なずに長時間苦しんだ。医師が駆けつけた時も、自分を生かさないようにと言い、カミカゼの飛行士達への償いとして苦悶し続けたそうであり、ようやく死に近づいた時に妻(淑恵さん)を呼び、「淑恵・・・、平和になった時にフィリピンに行き、私が住んでいたところ、特攻隊を作ったところに行きなさい。私はそこにいるから・・・」

1975年、淑恵さんは夫に会いに、この地マバラカットを訪ねている。

 特攻隊を発意・発令した人に、このような死に方をされると、後世のわれわれの心が何か救われるような気持ちになるのではないだろうか。しかしそのような果て方をし、ある種の責任の取り方をした人は他に一人もいないようである。

 次に特別攻撃隊の編成内容とその向かう先、そして特攻の方法を書く。大西はマニラ着任時に「海上決戦に備えての航空機が少なくとも100機いると思っていたが、それが30機に満たないのを知って愕然とした」と言っており、その30に満たない機は、第201海軍航空隊の本部であるマバラカットにあったものかと思えるし、それは零式艦上戦闘機(零戦)であった。その零戦による特攻の戦果により、以後の陸軍も一式戦闘機(隼)などで出撃している。

 その零戦30の内の26機を以って体当たり攻撃隊を編成し、それを4隊に分け、各隊の名称を「敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊」とし、大和隊だけがセブ飛行場に進出、他の3隊はここマバラカット飛行場を基地とした。各隊の基本は特攻機3、直接援護機(直掩機)2の計5機からなり、それらの隊を「神風特別攻撃隊」と命名し、その指揮官を関行男大尉とした。その特別攻撃隊はその後、敵も味方も「カミカゼ」と呼んだが、海軍は「シンプウ」と音読した。

 彼らの向かう先は、レイテ沖東方面にいる敵空母群であり、先のページ「フィリピン沖海戦」で触れた、栗田艦隊のレイテ湾突撃を成功させるための上空からの支援であった。

 特攻方法は、零戦胴体の中央にある補助燃料タンクの替わりに250キロ爆弾を抱かせ、敵艦の飛行甲板に体当たりするのである。その燃料タンクは飛行距離を長くするための予備であるが、特攻は基本的に片道だけなのでそのタンクを外したのである。

 敵艦に近づく時は敵のレーダー感知から避けるために海面すれすれに飛び、その後は急上昇し、そして急降下で敵艦に体当たりするのが特攻機であり、その援護と成果の確認(見届け)・報告を行うのが援護機の役割となる。とりわけ特攻機のパイロットには高度な操縦術が必要であった。

 隊の名前であるが、それは江戸時代の国学者である本居宣長が詠んだ「しき嶋のやまとごゝろを人とはゞ朝日にゝほふ山ざくら花=敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」からすべて引用されている。これを平易な文にすれば「日本人である私の心を問われれば、朝日に照り輝く山桜の美しさを知る、その麗しさに感動する、そのようなこころです」であり、敷島とは日本の美称である。

 日本人のいにしえからの美意識に響くような、このようなネーミングは一軍人が即行でできるはずもなく、先の研究開発は兵器自体の技術的なものとは別に、日本の古典文学を取り入れた精神面に与える作用の研究も同時にされていたことが窺える。

 以後もこのような、日本人の心の中にある美の琴線に触れるような名前の付け方をして、数多くの「神風特別攻撃隊○○隊」が編成されて行った。

敷島隊

敷島隊員6名
敷島隊員か?

 ここまで特攻に至った背景と特攻実践までの経緯を書いてきたが、ここで「神風特別攻撃隊」の指揮官を任された関行男大尉(当時23歳)の出撃時のようすと彼の率いる「敷島隊」の成果、そしてそれが与えた影響について書く。

*写真はクラーク・ミュージアムにある、敷島隊員と思われる6名。

 前述したような編成にて、神風特別攻撃隊はマバラカット、そしてセブから出撃したのが発令の翌21日である。関大尉率いる敷島隊(零戦5機)も出撃したが、敵空母群を発見できずに同基地へ戻るのが何度も続いた。この間の23日、「朝日隊」と「山桜隊」はマバラカットからミンダナオ島ダバオに移動し、そこから出撃している。

 同日の23日、大西長官率いる第1航空艦隊と同じ海軍の第2航空艦隊は、同艦隊の196機がクラーク・フィールドに進出したが、艦隊長官の福留繁中将は従来の編隊攻撃を固持して特攻を承知しなかった。このように、同じ海軍の中でも当初の現地指揮官の間には、特攻についての一致はなかったことがわかるので、大西が積極的だったと理解して良いであろう。

 マバラカット基地からの敷島隊は25日、5回目の出撃でようやく米空母群を発見した。なかなか発見できなかったのは悪天候もあるが、ぎりぎりの燃料しか積んでいないため、長く飛び続けることができなかったのだろう。そして発見できたのは、栗田艦隊が“4度目の反転(謎の反転と云われている)”をして、レイテ湾を目指しはじめた頃に、米海軍空母群の位置情報が、日吉台(慶應大学日吉キャンパスの地下壕)の連合艦隊司令部を経由してマニラの第1航空艦隊司令部に入り、その情報を関大尉は得ていたのかもしれない。

 その25日の状況はというと、関の率いる「敷島隊」の特攻機6(内1機は途中エンジントラブルで引き返したので5機)は直援護機1と共に、午前7時25分にマバラカット飛行場を飛び立った。向かう先はレイテ島タクロバンの東方であり、そこにいる敵空母4隻、巡洋艦・駆逐艦6隻がターゲットであった。

 10時40分、その空母4隻を発見し、レーダーに映らないように海上すれすれに飛び空母にアプローチした。そして5000フィート(約1500メートル)まで急上昇し、10時52分に5機の特攻機は突っ込んで行った。結果、同日午後0時23分までに、空母「セント・ロー」が沈み、同「カリニン・ベイ」が炎上した。

 直掩機の西沢広義兵曹長は5機の特攻を見届け、近場のセブ飛行場に不時着(12時20分)し、その戦果をマニラの第1航空艦隊司令部に昂奮しながら次のように報告した。

 「神風特別攻撃隊敷島隊は10時45分スルアン島の北東30カイリにて空母4隻を基幹とする敵機動部隊に対し奇襲に成功、空母1に2機命中撃沈確実、空母1に1機命中大火災、巡洋艦1に1機命中轟沈」

 このように、空母1隻を撃沈し、もう1隻の空母を大火災させ、そして巡洋艦1隻を轟沈(大破炎上とも)という大成果をあげたのだ。それは先述したような研究開発者の予想を大きく超えたものであり、日本海軍連合艦隊(栗田部隊、西村部隊、小沢部隊、志摩部隊)がフィリピン沖海戦での結果として敵から大きな損害を受けたにもかかわらず、敵に与えた損害は少なかったことを思えば、正しく望外の戦果であった。

 以来、日本の航空戦力の主要攻撃方法となる特攻(特別攻撃)が推進されたのはこの時からであり、福留の第2航空艦隊も、その翌日(26日)から大規模な特攻隊を組織する。

  敷島隊の戦果は天皇まで伝えられ、天皇はとても驚き「かくまでしてせねばならなかったのか・・・、しかし良くやった」と、軍令部総長に感激を漏らしたとされている。もちろん天皇のそれは、特攻を承認したことではないと理解できるが、軍部がそれをあたかも天皇がそれに賞賛・賛同したというふうな流れを作った感がある。そして神風特攻隊の戦果は、国民に異常な昂奮と感動をもたらしたとされている。

 そのためであろうか、軍上層部が当初案じていたものが変わり、特攻を積極的に推進する流れとなり、大本営も正式の戦法とし、陸軍も航空隊の特攻部隊を編成し、11月に入って出撃するようになった。

 そのような流れでの海軍、そして陸軍の特攻部隊の向かう先は、米軍のオルモック上陸(レイテ島西海岸で12月7日)の際のカモテス海沿岸であり、米軍輸送船団がルソン島へ向かう途上(12月中旬)であり、そして同輸送船団がルソン島・リンガエン湾に到達(翌年1月始め)する際でもあったし、米軍のリンガエン湾での上陸(1945年1月9日)後も続けられた。

 そのようにして同年1月半ばまで続けられたフィリピンでの特攻は、海軍は202機突入して256人戦死、陸軍も202機突入で251人戦死したとされているが(別の情報ではフィリピン作戦全体で665機の航空機が投入されたとある)、それからも続いた特攻(九州から沖縄へ向けての)により、その数は大幅に増えて行った。特攻隊戦没者慰霊顕彰会(東京)によると、特攻による戦死者は6418人に上るとされている。

 フィリピン戦後の米軍は、日本本土爆撃への足掛かりとなる沖縄へと向かった。すでに日本軍はまともに戦える状態ではなく、日本軍の航空攻撃は特攻を中心として、その特攻基地は日本本土(九州)へと移り、そこから沖縄への出撃となったが、この頃の特攻は強制的になっており、非常に残酷な状態になっていた。飛ばないというと非国民といわれて殴られている。また徴募した学生を使うことによって一層非人間的なものにもなっている。

戦艦大和の最期

 フィリピン沖海戦で大きな損傷を負った戦艦大和のその後は、本土決戦を遅らせるために「一億玉砕の先駆けとなれ!」とされ、片道の燃料だけで沖縄に向かった事実上の水上特攻であった。

 レイテ湾から陸上にいるマッカーサー軍に向けての艦砲射撃は実現しなかったが、今回は沖縄の陸地に乗り上げ、そこから上陸している米軍へ艦砲射撃を意図するのが大和の最後の役目であった。しかしそれも、残念ながら沖縄にたどり着くことなく米軍航空機(360機とか)の攻撃により撃沈され最期となった。その間に、大和の46センチ主砲は一度も火を吹くことはなかった。