開戦当初は破竹の勢いで勝利した日本軍だが、これまでの海軍の主役であった空母6隻の内の4隻、そしてその艦載機332機(別の記録で290もある)を、1942年6月のミッドウエー海戦(ミッドウエー島付近)で失うと戦局は一変し、日本の敗北は時間の問題と思われた。 しかし、その後3年にわたって両国は激戦を続けることになるが、日本軍の戦況は好転せずに、太平洋上での緒戦で実質的な敗戦が続き、この辺りから“絶対国防圏”の一角が崩れて行った。
その頃の米国の対日攻勢には二つのルートがあった。一つはコレヒドール島からオーストラリアに逃れ、そこから拠点をニューギニアに移し、ニューギニア北岸沿いを西進してフィリピン・レイテ島に拠点を構築し、そこからルソン島に渡る、南西太平洋方面軍(米英豪蘭連合軍)総司令官ダグラス・マッカーサー大将の道筋である。もう一つは中部太平洋の離島伝いの太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ提督のものである。なお、マッカーサーの道筋(フィリピン)には、かねてからの「アイ・シャル・リターン」の約束を果たすべく個人的なこだわりがある。
これに対する日本軍は、敵はフィリピンへ進軍すると予測しており、それをルソン島で迎え撃つとしていた。ルソン島なら台湾、沖縄に基地がある航空部隊の支援が可能であり、兵力配置、補給物資の蓄積も一応できていたからである。それにより、日本本土への米軍の上陸を遅らせることが可能としていた。そのためにも、フィリピンでの戦力が強化され、その地を管轄していた第14軍は、その一つ上の組織規模となる第14方面軍として昇格し、その司令官に山下奉文陸軍大将が着任した。
フィリピン赴任前の山下が大本営(戦時中に設置される日本軍(陸海軍)の最高統帥機関)陸軍部との打ち合わせで決まったのは、ルソン島山岳地帯での持久戦を展開し、米軍をできるだけ長くはりつけにしておき、日本本土への上陸を遅らせるというものであった。
ところが、思わぬ戦果(大勝利)の情報が入ったことにより、大本営陸軍部はルソン島での迎撃方針を変え、レイテ島での決戦、そして海軍はそれに呼応してレイテ沖海での決戦へと舵を切ったのである。しかしその戦果情報は誤報であり、それらの決戦に重大な影響を与え、はかり知れない致命的なものとなったのである。言い換えれば、その誤報がなければ、レイテ島での日本軍の犠牲は大幅に少なかったはずであり、ルソン島での山下の持久戦は功を奏し、違う展開になっていたかもしれないのである。それでは、その誤報とはどのようなものであったかを次に書く。
1944年10月12日から16日まで、米軍のレイテ島への上陸作戦の布石として、台湾から沖縄にかけての日本軍航空基地を攻撃した米海軍空母機動部隊に対し、日本海軍の台湾基地航空部隊が迎撃した戦いが台湾沖航空戦である。
その航空戦のきっかけを作ったのは、米海軍機動部隊のウイリアム・ハルゼー艦隊司令長官である。ハルゼーの作戦は、台湾沖で騒いで(空襲し)日本軍をおびき出し、ダメージを与えることを目的としていた。
それに対しての日本軍は、千載一遇のチャンスとばかりに、占領地である台湾の航空基地から、延べ600機以上の航空機が出陣したが、結果的にはそのほとんどを失ってしまった。
ハルゼーは目的を達成し、彼の艦隊は意気揚々とレイテ戦への支援へ向かった。
しかし、大本営海軍部はその戦果を次にように発表した。
轟撃沈:航空母艦(空母)11隻、戦艦2隻、巡洋艦3隻、巡洋艦もしくは駆逐艦1隻
撃破:空母8隻、戦艦2隻、巡洋艦4隻、巡洋艦もしくは駆逐艦1隻撃、艦種不詳13隻
その他火焔火柱を認めたもの12隻を下らず。
わが方の損害、未帰還の航空機数312(この数は自軍だけあって実際のようである)。
もしこれが事実だとすれば、世界海戦史上最大の戦果であり、米国が開戦以来進めてきた空母大量建造は、日本軍のこの攻撃により一度で潰滅したことになりそうなものであった。
この大本営発表は、緒戦で敗戦が続き前途に不安を抱きはじめていた日本国民を狂気させた。連合艦隊は勅語を賜わり、東京、大阪で国民大会が開かれそれを祝った。当時(東條英機の後)の総理大臣である小磯国昭大将は「勝利は今やわが頭上にあり!」と叫んだ。
しかしこれは多くの未熟練のパイロットが見た幻影であった。ハルゼーによれば、12、13の両日、撃墜された日本の攻撃機が艦隊周辺の海上で盛んに燃えていたので、それが背景になって空母自身が燃えているように見えたことがあったという。
海上すれすれに退避しながら、戦果報告を作文しつつあった未熟なパイロットには、なおさらそう見えたのかもしれない。つまりそれは、日本軍パイロットの誤認であり、大本営海軍部の誤報であった。実際は巡洋艦2隻大破のみとされている。
この当時は多くの熟練パイロットを失い、急拵えの訓練での新人パイロットが多かった。そのようなパイロットから戦果報告を受けた上官は、たとえそれが確信のもてなそうであっても、希望的観測も含めて都合の良いように理解し、そして上層部に上がって行ったように思われる。その背景には、軍部全体の空気の中に良い戦果を聞きたい、そしてそれを国民に知らせたいという気持ちが強くあったのかもしれない。
後日、連合艦隊及び大本営海軍部はその誤認に気づいたが、敵機動部隊健全の真実を、政府と陸軍にも通報しなかった。つまり、陸軍がそれを早めに知っていれば、決戦場を急にレイテ島に切り替えて、多くの決戦部隊をレイテ島に送ることはなかったかもしれないのだ。
すでに制空権も制海権も持たない日本軍がルソン島からレイテ島へ部隊を動かすとなれば、その輸送途上を米軍に狙われるのは必至であるし、ルソン島での決戦であればその輸送は必要なく、犠牲はレイテ島に駐留していた第16師団と、ビサヤ、ミンダナオからの増援部隊だけですんだかもれないのである。
今日からみれば信じられないことだが、天皇にもすでに報告してあった体裁、そして全国民を湧かせた戦果がいまさら間違いだったとは言えなかったのだろうし、後で挽回して辻褄を合わせようと考えていたのかもしれない。しかしそれにしてもこのことは驚きであり、この辺りに海軍に限らずに、何か根深い日本軍の体質があったように思える。
以上が決戦前の状況であり、それらの戦いはどのようなものだったかを、まずはレイテ沖海戦について書く。
レイテ島に拠点構築を意図するマッカーサーの南西太平洋方面軍を打ち砕くと同時に、米太平洋艦隊をも撃破しようとした日本海軍の戦いを「レイテ沖海戦」と一般的に呼ばれる。しかしこの海戦は、ルソン島東北方面海上からレイテ島西南のスールー海まで、4百カイリ平方におよび、広大な空間で行われているので「フィリピン沖海戦(以後この名を記す)」とも呼ばれている。
そこでの主な海戦場は、シブヤン海、スリガオ海峡、エンガノ岬海、そしてサマール沖の4つで構成されている。(地図参照)
その規模において、世界の海戦史上最大のものであった。そしてこれが日本の連合艦隊(司令長官豊田副武大将)と米国の太平洋艦隊(司令長官チェスター・ニミッツ大将)の実質最後の決戦となった。
米側は、ニミッツ提督配下の第3艦隊(司令官ウィリアム・ハルゼー中将)、そしてマッカーサー大将配下の第7艦隊(司令官トーマス・キンケード中将で、俗にマッカーサーの海軍と呼ばれた)が中心である。
先述したような戦果誤報により、米艦隊は大きなダメージを受けたと思い込んだ日本海軍は、この機とばかり米艦隊を打ちのめして、戦局の逆転を図ろうとした。それは後に誤報と気づいても、その流れは止められなかった。
日本海軍はフィリピンを失うことを陸軍以上に恐れていた。南方から石油が入らなければ、航空機は飛べないし、艦船もただの鉄の塊となってしまうのであった。こうしたなかで、マッカーサー率いる艦隊がレイテ島に上陸するであろうと予測した日本海軍連合艦隊は総力をあげてレイテ湾目がけて突入し、フィリピン沖海戦が始まったのである。
この海戦前の日本海軍連合艦隊は分散しており、主力艦隊(戦艦「大和」「武蔵」などがいる)はリンガ泊地(シンガポール南80カイリのリンガ諸島とスマトラ島との間に設けられた海軍の艦艇停泊地)にあったが、機動部隊(航空母艦を中心とした巡洋艦、駆逐艦で編制された部隊)は艦載機の補充と搭乗員訓練のために瀬戸内海にいた。
南方にいた艦隊には重油はあるが弾薬がなく、瀬戸内海の艦隊はリンガ泊地へ行かなければ燃料が枯渇するおそれがあった。二つの艦隊は南方で11月に合流する予定でいたが、米軍が10月にレイテ湾に進攻してきたことにより、不備ながらこれらの艦隊が南北それぞれから出動し、敵のレイテ島上陸企図を破摧(はさい)しようとする行動計画であった。
台湾沖航空戦で300を超える航空機を失い、そして太平洋上の緒戦ですでに多くの艦船を失っていた日本海軍(連合艦隊)は、弾薬と燃料不足のこともあり、苦肉の策とも言えるような作戦をとった。
この作戦での艦隊(部隊)の布陣を記すと、リンガ泊地にいた栗田健男中将率いる主力艦隊(含む西村祥治中将率いる別部隊)、瀬戸内海にいた小沢治三郎中将率いる機動部隊、馬公(台湾)で待機していた志摩清英中将率いる機動部隊であった。
小沢機動部隊は米艦隊への囮となり、相手が釣られている隙に、他の部隊が巧妙に連携し、米艦隊を駆逐しながらレイテ湾に突入して米輸送船団を撃破し、さらにすでにレイテ湾から上陸(10月20日開始)して海岸にいる敵上陸部隊への艦砲射撃を行い、レイテ島で戦う日本陸軍をサポートするものであった。
もしこの作戦が成功していれば、レイテ島に上陸したマッカーサーの軍は、後方との連絡を断たれ、その補給計画は大幅に狂い、撃滅されたかもしれないのであった。
しかし、4百カイリ平方におよび広大な海域での戦いには多くの錯誤があり、結果はそのようには上手く運ばなかった。
10月24日から26日までの実質3日間の戦闘結果は、米艦隊への大きなダメージを与えることなく、そしてレイテ湾にいる米輸送船団への“殴り込み”をすることなく、各艦隊・部隊に多くの犠牲を出しながら、それぞれの泊地へ帰った。
一般によく知られている、戦艦「大和」と「武蔵」はどうなったかが気になるところであり、「大和」は深傷を負いながらもリンガ泊地へ戻ったが、「武蔵」は残念ながらそうならなかった。
リンガ泊地からリンガエン湾に向かう途上のシブヤン海で、辺りが真っ暗になるほどの敵飛行編隊の攻撃により、46センチの主砲の威力を発揮することなく、24日午後6時50分に機関停止、同7時35分左に横転沈没した。
すでに日本海軍には米空母に対抗できるだけの機動力(航空戦力)は残ってなく、「武蔵」を助けることができなかったのであった。沈没必至と判断した艦長の猪口敏平少将は総員退去用意を命じ、艦橋を去る副艦長に遺書を渡し、「武蔵」と運命を共にしたという。乗員約2400のうち、戦死1039名であった。彼らは、北海道から東海地方までの若者(大半は10代から20代の若者たち)たちで編成された「横須賀海兵団」であり、武蔵に乗り込んだのは、その中でも選りすぐりの精鋭であった。
巨額の国家予算が投じられ、海軍の持てる技術全てが注ぎ込まれた武蔵は、全長263メートル、基準排水量64000トン、世界最大の46センチ砲を搭載し、設計的には沈まないとされ、不沈艦と呼ばれていたが、敵の一方的な攻撃に晒され沈んでしまった。
フィリピン沖海戦で日本海軍が失った艦船数は、空母4、戦艦3、重巡洋艦6、軽巡洋艦4、駆逐艦9隻となり、これ以後の日本海軍は大規模な戦闘を展開していない。
こうして、日本海軍が最後の機会を賭けた作戦は失敗してしまったのだが、日本陸軍はレイテ島での地上戦(「レイテ決戦」)を弱めることなく、むしろそこへの兵力を増強して行くのである。