レイテ島での戦いは日本軍の8万人もの戦死者をだして敗戦となり、島に残った(または残された)部隊、そして一部の部隊はセブ島などへの転進が始まったことを先のページ(「レイテ決戦」)で書いた。このページでは、セブ島に転進した部隊はどのようになったかを書く。
レイテ島からセブ島へ転進した最初の部隊は第1師団の歩兵49連隊であり、1945年1月13日の午前1時半にカンギポット周辺の海岸を大発(大発動艇の通称で陸軍の上陸用船艇)にて出発。同日の未明、セブ島の北端西海岸のボゴ沖に到着し、その後は海岸沿いに南下して午前8時半にタボゴンに着いた。*地図参照
その後も第1師団の転進は続き、合計約800名の輸送が行われたが、大規模な輸送はもはや不可能となり、転進作戦は1月20日をもって事実上終わっている。
タボゴンにはセブ船舶工兵司令部に属する船舶工兵が400名と独立混成57旅団の紙岡大隊約240名がいた。他に26師団の13連隊がいて、ボゴ、メデリン(地図参照)方面を警備していた。これにレイテ島からの第1師団が加わったことにより、相当数の兵力がタボゴンに集結したことになった。
セブ島の中心であるセブ市内には当時、102師団司令部、第78旅団司令部、第173大隊併せて1500名が駐屯、他に船舶工兵連隊、船舶工廠、第14陸軍病院があり、海軍第33根拠地隊、海軍航空部隊、そして在留邦人1700と合わせると12000の人員が集中していた。
第35軍の司令官である鈴木宗作中将もレイテ島からセブ島へ移っており、セブ市街にある35軍の司令部(セブ大学にあった)で体制固めと今後の作戦展開を検討している。先に到着してタボコンにいる第1師団は、セブ島北部にいるゲリラの掃討を行なっていた。
マニラ市街戦を終えた米軍は掃討作戦として、3月26日にはセブ旧市街から数キロ南下したところにあるタリサイという町の浜辺(今では記念公園になっている)にアメリカル師団を上陸させた。その師団が地元のゲリラ部隊(米軍のカッシング中佐が率いた)と合流し、セブを守っていた日本軍と市街地にあるゴーチャン・ヒル(丘)というところで戦った。それは、3日間続いた激しい戦闘であった。
現在のゴーチャン・ヒルには、地元のゴルファーから「カラバオ(水牛)ゴルフコース」と呼ばれる、9ホールのほとんどがパー3のゴルフ場(Water Buffalo Golf Club)がある。
私はその丘の高いところに登って、周りの景色を眺めてみたことがある。そこは日本軍の退避陣地を師団戦闘司令所としていたもので、日本軍呼称が“天山陣地”であったように、なるほどここからは、東、北、そして西の街のようすが一望でき、眼下には現在ITパークとなっている多くの高層ビルが見えた。そのITパークは当時、日本軍が使っていたラホーグ飛行場である。
ゴーチャン・ヒルでの戦闘の結果は日本軍の敗走となり、そこから数キロ先の尾根に移ってそこでも戦い続けるが、やはり敗走となり、その後はタボコンにある第1師団の戦闘司令所周辺に集結している。
アメリカル師団はしかし、北へ転進した日本軍を執拗なまでには追わず、その後の激しい戦闘の記録はない。この師団は6月20日、日本本土上陸作戦の準備のためにレイテ島に帰った。米軍のそれ以後のセブ島は、上陸前からセブ島にいて地元ゲリラを指揮していた米軍のカッシング中佐のゲリラ部隊に任されており、その辺りの影響により激しい戦闘はなかったようだ。
ゴーチャン・ヒルでの戦いから5ヶ月後の8月28日、つまり、終戦から2週間以内になるが、日本軍はセブ島北部のイリハンで武装解除となった。
私はその武装解除の地へ行ったことがある。そこは、タボコン自治区内のイリハンというバランガイ(行政最小区)にある。セブ市街から北上して2時間くらい車で走ると、幹線上の左手に青い柵のある造園業らしき民家があり、その敷地の中に立派な記念碑(写真参照)があった。その記念碑には英文で次の内容が記されていた。
1945年8月28日、セブでの日本軍の最初の投降の場所
この場所で、米陸軍アメリカル師団の司令官であるウィリアムH.アーノルド少将は、日本軍第35軍の片岡中将、他3名の将軍および海軍大将一人の投降を受け入れた。
同月の29日から31日まで、セブ島にいる他の日本軍は、カトモン、アストリアス、バランバンの地域内で投降した。
1945年8月下旬にセブで投降した日本の占領軍兵士の総数は約9800人であった。
アメリカル師団は1945年3月26日午前8時30分にセブのタリサイに上陸し、セブにいるフィリピン人の安全を確保するため、セブ市へ向けて素早く移動した。
5ヶ月の戦闘の後、フィリピンのゲリラ部隊に支援されたアメリカル師団は日本軍を打ち負かした。 それは、ゴーチャン・ヒルやババッグ・リッジなどの、セブ市の高台で激しい戦闘が繰り広げられた。
アメリカル師団はまた、フィリピン国民の解放を支援するために、その部隊の一部をフィリピンの他の島々に派遣した。これらには、北西レイテ、マクタン島、ボホール、南東ネグロスオリエンタル、サマール、ブリアス、カプル、ビリが含まれる。
この投降地は、米軍将兵とフィリピン人抵抗勢力が団結し、そして協力してフィリピン人の自由を確保したことを証明している。
この内容について少し説明を加えると、第35軍の片岡中将となっているのが、35軍隷下の第一師団長であり、レイテ島からセブ島に渡ってきていた。第35軍の司令官は鈴木宗作中将であったが、35軍はレイテ戦後にビサヤとミンダナオ地区の駐留部隊を掌握指揮することを任されており、鈴木はセブ島からミンダナオ島に向かっている途中の4月19日に戦死しているのですでにいない。
アメリカル師団とは、先述したタリサイという町の浜辺に上陸した部隊である。この少し変わった名前の師団は、ガダルカナル島の戦いで編成された混成師団である。その後はニューギニア、ブーゲンビルでの戦いを経てレイテ島、そしてセブ島に進軍した。名前(アメリカル)の由来は、アメリカとニューカレドニアを合わせた造語で命名したようである。
碑文にある“5ヶ月の戦闘”の主戦場はゴーチャン・ヒルであり、ババッグ・リッジ(尾根)は、日本軍がゴーチャン・ヒルから退却して向かった先である。
この記念碑について調べたところ、先のアメリカル師団の退役軍人(協会として)がこの土地の所有者から場所を提供してもらい、その協会がスポンサーとしての活動(プロジェクトと伝えている)によりでき上がったものであった。2015年の3月には、同協会退役軍人のグループが出席してこの記念碑の除幕式を行なっている。2015年は戦後70年の節目の年であり、おそらくそれを記念しての一環のプロジェクトだったと思われる。
このような立派な記念碑が、アメリカル師団・退役軍人協会のプロジェクトによりでき上がっていることにより、ここでの歴史は多くの人に伝えられて行く機会になるであろう。
私がこの場所を訪ねた目的は、実際の武装解除の跡地を見ることであったので、近所の人から教えてもらったところ、そこはすぐ先の野原であった。私はその人に、ここに間違いないかを何度も確認したところ、サレンダー(武装解除)の儀式を行ったこの場所の敷地面積は1ヘクタールだと言い、武装解除で武器が積み上げられた場所に穴を掘り、全ての武器をそこに埋めたのだと言う。その場所は後に鉄分の影響で赤土になったとも言う。何だか妙に説得力のあるものであった。
私が事前にユーチューブでのビデオをみて感じた野原はもっと広いように思えたのだが、儀式だけの場所としたらこのくらいのスペースなのかもしれないし、ビデオはその儀式の背景も映していたので、余計に広く感じたのかもしれない。
その野原に立った私は、ユーチューブで見た場面を思い出していた。ビデオで見るここでの日本将兵にはまだ活力があり、それは写真で見る“バターン死の行進”での米比将兵(捕虜)とは明らかに違っていた。
そこでの日本兵の数は2667人とされており、その中には日本軍野戦病院の女性看護師も含まれていた。それは、写真だけではあるがユーチューブにあった。その写真からは、男性兵士の中に8人の女性看護師が並んでいるのが確認できた。おそらく看護師用の軍服であろうものを着け、それぞれがリュックを背負い、腰のベルトにはアルミの水筒を下げ、そして脚絆(ゲートル)をつけており、その姿は少し勇ましくもあるが清楚である。皆、下向きかげんでその表情には不安感が表れており、それを見ていると心の痛みを覚える。彼女らはおそらく、セブにあった陸軍病院の看護師だったのではと思われる。
そして、ビデオの後半に出てくる降伏したばかりの日本軍捕虜が、トラックに乗り込む姿などからも彼らの余力を感じた。それはおそらく、鈴木司令官の作戦展開のなかには北への転進準備があり、それに伴って食糧の移動があったのが影響しているのかもしれない。
その日本軍捕虜を乗せたトラックがセブに向かう途上では、道路沿いのフィリピン女性たちから「ハーポン(日本人)、バカヤロー、パタイ(死ね)!」などの罵声を浴び、そして石も投げられている。それは、3年間の日本軍による占領中の彼ら日本将兵の残忍な扱いに腹を立てた結果の行為であったという。この光景はルソン島の捕虜収容所から、帰国のためにマニラ港に向かう鉄道(無蓋車両)での状況と同じである。
私は近所の人から教えてもらった野原に立ち、しばらく当時の武装解除式に思いを馳せていた。