ルソン島の捕虜収容所

カンルーバン周辺

 山々の奥に隠れ潜んでいた将兵、そして民間人が多くいたなかで、8月15日の終戦をすぐに知った人たちは少なかったと思われる。終戦を知った方法は、米軍がまいたビラとか、日本軍上層部からといろいろだったであろうし、それにより投降の決断や投降日は人それぞれであった。

 結果として投降・降伏を決め、隠れ潜んでいた山々から下りてきた人たちの向かった先は、近くの米比軍キャンプだったようで、そこからいくつかの収容所に捕虜として移送されたようでもある。

 それらの捕虜収容所のなかで、当時から大きな刑務所であったモンテンルパにあるニュー・ビリビット刑務所の一部も使われていた。しかし投降する日本人が日々増加するなかでは到底賄いきれず、米軍はすぐに新たな収容所をカンルーバンに開設することを進めた。このページでは、その捕虜収容所のことを書く。*地図は今のカンルーバン周辺。

マリア・マキリン

マキリン山周辺図

 マニラ首都圏からの高速道路を少し南下すると、左手に大きな湖(バイ湖)が見え、前方には裾野の広いマキリン山(標高1090メートル)が視界に入ってくる。辺りの土地は平坦なので、遠くからでも良く見え、まさに鎮座している風にも見える。

 周辺の地元民の話では、その山の形を“長い髪のプレグナントウーマン(妊婦)が寝ている”という。山には妖精が棲んでいるという伝説があり、その名は“マリア”で、山の名前も“マリア・マキリン”とも呼ばれている。山のほとんどが鬱蒼たる密林で、山深く入り込んだ男性が戻って来なかった例が多くあるのだとされ、それはマリアが関係しているのではともいわれている。

 終戦後、降伏したくない日本軍の敗残兵がこの山の奥深くに潜んでいた記録がある。山の北西にあるカンルーバンという地区には、日本軍将兵の捕虜収容所と、それに関係して病院と墓地があった。戦犯の容疑が晴れて比較的緩く監視されていた捕虜たちが、米軍兵から何らかの指示で山の周辺を通った時には「おーい、戦争は終わったぞー、一緒に日本に帰ろうー!」と呼びかけていたそうだ。*地図は今のマキリン山周辺。

ロスバニョスの刑場

 マキリン山の山麓北東にはロスバニョス(上の地図参照)という町がある。街の中心から山道を登る途中のある場所に、マニラ軍事裁判で死刑判決を受けた人の処刑場(二つ上の地図、終焉の地を参照)がある。終戦翌年の2月23日、山下奉文陸軍大将が、カンルーバン捕虜収容所と同じ敷地内にある戦犯特別収容所の独房から出され、そこで絞首刑となった。同年4月3日には本間正晴同軍中将が同じようにして、銃殺刑に処されている。
 山下の処刑は極秘裏になされたが、本間の処刑日は収容所にいる捕虜(将兵)に知れ渡り、その当日には彼らの多くがロスバニョス方面に向かって、本間の故郷の「佐渡おけさ」が唄われ、やがて、厳粛に悲壮感に満ちた声で「海行かば」が斉唱された。

カンルーバン捕虜収容所

カンルーバン収容所跡地

 話をカンルーバンの収容所に戻そう。終戦後の当初は、モンテンルパにあった刑務所(ニュー・ビリビット)に捕虜収容所と病院が米軍により開設されたが、降伏する日本将兵の数が日々増加し、その多くはひどい栄養失調症になっているなかでは到底対応できなかった。そこで米軍は、モンテンルパから南へ30キロほどのところにある、カンルーバンに新たな収容所と病院を開設した。しかし、“時すでに遅し”であろうか、多くの将兵が亡くなり、その病院の近くに急ごしらえされた墓地に埋葬された。

 今のカンルーバン周辺には日系企業が入るいくつかの「経済区」があり、多くの日本人が利用する数カ所のゴルフ場もある。1986年11月にはそこのゴルフ場で、三井物産の若王子マニラ支店長の誘拐事件が起きたことがあった。

 その収容所の跡地は今でも定かでなく、ご遺族の一部の方が慰霊のためにこの地に出かけて探されたようだが、結局その地を特定することは出来ずに帰国された、というようなことがあったことを私は聞き及んでいた。

 私の営む物流会社はカンルーバンの近くにあり、また自身にとってもマキリン山の存在が身近になっており、その収容所跡地を特定することは、私の使命のような気がしてきていた。
 2019年から、会社の運転手と共に何度か周辺に出かけたが、地元出身で土地事情に詳しい彼と一緒でさえ、そこを探すことは容易でなかった。収容所の開設は終戦後間もなくであったろうし、捕虜の数は帰国で徐々に少なくなり、閉鎖されたのは1946年12月23日と関係文献にあったので、収容所として機能していたのは1年半ぐらいであった。私が探索し始めた2019年でいえば73年も経っており、また土地が平坦でもあり、地元住民の記憶に繋がる目印が少ないせいもあったかもしれない。
 それでも私は諦めず探し続けるなかで、ある文献にマキリン山を背景にした、おびただしい数の白い墓標が並ぶ墓地の写真を目にした。写真は鮮明ではないが、“妊婦の長い髪”の天辺に当たる角度からヒントを得、満を持して出かけたのが、コロナ禍が収束した2022年4月9日であった。

 その結果は、“妊婦の長い髪”の天辺の角度が決めてとなり、そして他の関係文献から得た情報を加味し、ここではないかと考えられた現場に立ち辺りを見渡した。*地図は私が特定したカンルーバン収容所があったと思われる場所だが、そこはカランバ市に属する。上の地図にあるカンルーバン周辺の一部はカランバ市に属するが、当時の日本将兵は”カンルーバン”と呼んでいた記録が多い。

 周りの地形、バイ湖の向こう岸に見える山(マスンギット・ロック)、そして近くの市街地にある鉄道駅の方向などの観点から、ここは“墓地跡地”であると確信した。そこには、物流会社の海上コンテナが複数置かれていたが、その先にはマキリン山がはっきりと見えた。*下の写真参照

 しかしそこまでの途上にはびっしりと建物が並び、山を見ることはできなかった。いずれ近いうちにここにも建物ができるのであろうかと思うと、そこに立てたのは幸運であったと感じている。

マキリン山