1944年4月5日、第14軍(当時は黒田重徳司令官)隷下の第16師団(呼称垣、ルソン島にいた)主力がレイテ島進出の命令を受けてレイテ島に移動を始め、同月13日にレイテ島の東海岸にあるタクロバン飛行場に師団長が到着した。
同年7月24日、大本営(戦時中に設置される日本軍(陸海軍)の最高統帥機関)は新たに、千島、本土、南西諸島、台湾、フィリピンを連ねる線で、来襲の敵を撃破する総合作戦計画を発令し、それを「捷号(しょうごう)作戦」と称し、それは追い込まれた日本軍の背水の陣であった。
この作戦計画により第14軍は第14方面軍(以下方面軍と記す)に昇格、そしてこの頃に第35軍(司令官鈴木宗作中将)が編制され、フィリピン諸島中南部(セブなどのビサヤ諸島とミンダナオ)の諸隊がその隷下に入り、同時に同35軍は方面軍の隷下となった。
9月19日、16師団歩兵第33連隊の主力がレイテ島西海岸のオルモックに入港した。9月21日、米軍による第1回目の空襲がマニラにあり、その後はフィリピン諸島の各地にいたゲリラの抗日活動が活発になった。彼ら(抗日ゲリラ)は短波放送の“ボイス・オブ・アメリカ”を聴いており、米軍の攻撃状況を知っていたのである。
10月6日の夕刻、山下奉文陸軍大将が第14軍から方面軍に昇格したばかりの司令官としてマニラに到着した。この時すでにレイテ島への派遣が決定していたとされている情報があるが、この時点では大本営はまだ、主戦場をルソン島とし、ビサヤ地区は持久抵抗の方針であった。
*写真は投降後マニラで撮られたもので、晴ればれと堂々としている山下大将。右は米軍憲兵の少佐。クラーク・ミュージアムにあったもの。
10月17日、先のマッカーサーのルートでの米陸軍の船団がレイテ沖に達した。抗日ゲリラからの報告を基に、日本軍の防備が手薄なレイテ島が選ばれたとされている。レイテ島はフィリピンのなかでも、とりわけゲリラ勢力が強い島であったとされているが、それにはマッカーサーの戦略があった。
マッカーサーはフィリピンゲリラの存在を十分認識しており、それを抗日運動に利用しようと考えていた。そのためにゲリラを組織化してそれを支援し、潜水艦で多くの物資(武器、食料、資金など)が密かに届けられた。さらにその物資の中には「アイ・シャル・リターン マッカーサー」と書かれた、タバコやマッチ、そしてチョコレートがあり、この戦争は「民主主義を守るための戦いである」と書かれたパンプレットもあった。
このようにして、ゲリラはマッカーサーの目と耳と呼ばれ、日本軍の飛行機や艦船の動きと防備状況などが無線で報告されており、マッカーサーはフィリピンの状況を手にとるように把握していたのである。
米陸軍西南太平洋司令官マッカーサー大将配下の、クルーガー将軍率いる第6軍の船団は艦艇数700を超える大船団(史上最大とも)であり、それは第10軍団と第25軍団の構成で、各軍団は2個師団からなり、各師団兵力2万5千である。諸隊は戦車隊、水陸両用車両部隊、挺進通信隊で補強されており、後方勤務部隊を入れると総兵力20万2500であった。
大本営は敵の攻撃方向を、ほぼ正しく推測しており、フィリピン諸島のどこか、もしくは台湾を最も可能性の高い攻撃正面と判断していた。そしてそのいずれに奇襲しても、海陸空の戦力を結集して撃滅することとしていた。
10月18日、ルソン島とビサヤ諸島に延べ約400機の敵機が来襲し、レイテ島東海岸のタクロバン、ブラウエン地区の飛行場は波状攻撃を受け、同日午後には米軍小艦艇がレイテ湾内深く侵入して掃海(機雷などを除く作業)を実施した。そして16師団の海岸陣地は艦砲射撃を受けた。艦砲射撃は上陸を容易にするために、沿岸にいる敵を掃討することを目的としており、この攻撃により、米軍がレイテ島への上陸を図っていることは明らかになり、寺内寿一元帥南方総軍(方面軍の上層)総司令官は18日、「捷1号(敵がフィリピン来攻の場合)」の発動を大本営に要請した。
同日午後、軍令部(海軍の機関)総長及川古志郎大将、そして参謀総長(陸軍全体の作戦・指揮を統括する中枢機関である参謀本部の長)梅津美治郎大将が参内して、捷1号作戦発動に関して天皇の裁可を仰いだ。
大本営陸軍部は従来のルソン島での決戦を変更し、レイテ島へ攻め入った敵に対し、できるだけの増援部隊を送り戦う方針を示した。つまりこの時点でレイテ島での決戦に変えたのである。
南方総軍の考えは、レイテ島に米軍の陸上基地を許せば、ルソン島での決戦は成り立たなくなり、敵が最初に上陸を企図した機会を捉えて、決戦に臨むべきという意見に傾いていたため、大本営陸軍部の決戦場の変更判断は、南方総軍参謀にとって我が意を得たものであった。
10月18日、南方総軍(当時マニラにいた)の作戦参謀が口頭で、方面軍(同様にマニラにいた)に対してレイテ決戦を通達してきた。しかし山下はルソンからレイテ決戦への変更は反対であり、大本営から派遣されていた参謀、そして南方総軍参謀と二日間言い争ったといわれている。
レイテ島には兵力の配置や陣地の構築もできていなければ、軍需品の蓄積もない。敵が上陸してから泥縄式に兵力を送っても、成果は望まれないし成功の公算は少なく、失敗すればフィリピン全体を失うおそれのある作戦変更は行うべきではないとし、レイテ島は予定通り持久抗戦に止めるべきであるというのが山下の考えであった。
加えて、マニラに着任した山下が見たものは、レイテ島に兵員資材を送る十分な船舶はない状態であったことも、その理由であったように思われる。先述した9月21日の米軍の初空襲以来、約15万トンの船舶がフィリピン海域で失われていたのである。
一説によると、山下は南方総軍にレイテ決戦中止の意見具申をしたが、総軍司令官の寺内元帥は「既に決めたことである」として山下の意見を撥ねのけたとある。その寺内は、レイテ島での戦いが不利と見るや、マニラにあった総軍司令部を安全なサイゴンへと移し、さっさとフィリピンを離れてしまった。総軍司令官である寺内は、米軍でいえばマッカーサーに匹敵する立場にあり、前線で指揮をとったマッカーサーと、戦線からいちはやく脱出を図った寺内とは、何と言う違いであろうか。この辺りに日本陸軍上層部の体制がうかがえる。
10月19日、午前零時付をもって捷1号作戦が陸海軍に発令された。南方総軍も同日中に下達し、方面軍司令官山下大将は第35軍司令官鈴木宗作中将(セブに司令部を置いていた)に対し、「軍の全兵力を挙げてレイテに上陸する敵を撃破するに勉むべし」と命令した。
10月19日、300隻の米軍上陸用船艇は母艦を離れた。水陸両用戦車が先頭に立ち、両側はロケット砲装備上陸用船艇によって守られていた。その後に幾列かの歩兵上陸用船艇が続いた。米第6軍隷下の第10軍団はタクロバンとパロ方面、同第24軍団はドゥラグ方面に向かった。
10月20日、海上が明るくなるにつれ、すでに上陸していた第16師団の歩哨は朝焼けの水平線が、艦船で渦巻いているのを見た。タクロバン方面に3隻、ドゥラグ方面に4隻の船艇が駆逐艦の砲撃に援護されて岸に近づいた。その2時間後、巡洋艦と駆逐艦が湾内深く入って砲撃してきた。
マッカーサーの配下にある第7艦隊の6隻の戦艦も艦砲射撃を実施してきた。その方向はパロとドゥラグ間の約30キロであり、その海岸から陸奥地の2キロまでが一斉に攻撃された。艦砲射撃は24時間も続き、このように「レイテ決戦」の幕は切って落とされた。
この米軍上陸と共に、フィリピン全土の抗日ゲリラは蜂起した。事前に上陸情報を得ていた彼らは待ち構えており、米軍の進撃に伴ってゲリラも日本軍と戦ったのである。
レイテ島での地上戦(レイテ決戦)の期間は、米軍の東海岸への上陸である10月20日から起算し、大本営が12月19日にレイテでの地上決戦を中止する迄としたら2ヶ月であり、その間に多岐に渡る作戦が展開されており、その戦闘場所も多くある。
ここでは、レイテ島内での戦いがどのように展開されたかの概要・大筋を書くことにするがその前に、まずは先述した大本営の方針による増援部隊の陣容を記す。
第35軍直轄部隊、その隷下となる第1師団(呼称玉、満州・関東軍の隷下にいた)、第26師団(呼称泉、マニラから)、第30師団(呼称豹、ミンダナオ島方面にいた一部)、第102師団(呼称抜、パナイ島(ネグロス島の北西)にいた一部)、第68旅団(呼称星、満州にいた)、そして海軍部隊などであった。
満州からの増援軍は一度マニラに寄って体制を整え、輸送船団(日本郵船などの民間商船の旅客・貨客船・貨物船を徴傭してそれに護衛隊(軍艦)が付く)を組んで、危険水域のバシー海峡を渡り、オルモック湾(戦況によってはカリガラ湾沿岸)へ向かうのだが、マニラからオルモック間の720キロは長く危険な航路であった。米軍のレイテ島上陸とフィリピン沖海戦の敗北で、制空権と制海権はすでに米軍側にあり、多くの輸送船が米軍の潜水艦などにより沈んでいる。
それでもなんとかオルモック港または周辺に上陸した援軍は、そこを地上戦の補給基地とした。これらの増援部隊の到着により、レイテ島は16師団だけでの防衛から、組織的体制での攻撃が始まり、苛烈・壮絶をきわめた戦いが続くことになった。
さてそれでは戦いの大筋となるが、米軍がレイテ島東側のレイテ湾から上陸したことにより、日本軍はその反対側(西側)のオルモック港から上陸し、脊梁山脈を北から回り込んで東側に出て、レイテ湾沿岸にいる米軍を駆逐する作戦であった。
米軍はというと、レイテ湾沿岸の上陸地(タクロバン、パロ)から、同様に脊梁山脈を北から回り込んで西側に出て、オルモック港にいる日本軍を駆逐する作戦であった。
そのようななかでの米軍は、ドゥラグ(タクロバン、パロの南)から上陸した部隊は西へ進軍してブラウエン周辺にあった飛行場群を確保していた。それを知った日本軍は、上陸地であり補給基地とするオルモック港が脅かされるとし、島中央の山越えをしてそれらの飛行場を奪還しようとする作戦もあった。*地図:レイテ島とその周辺
これらの作戦状況を理解しやすくするため、ここでもう少し詳しくこの島の地理を説明する。南北に細長いこの島には、そこを走る脊梁山脈がある。それにより、東西間を行き来できる道は二つに限られており、その一つは島の北にある町パロから北西に伸びる道をカリガラ湾に向けて進む道である。この道の途中には平野があり、カリガラ平野とかレイテ平野と当時呼ばれていた。
カリガラ湾に出るとそこから海岸沿いに、西に8キロほど進んでから左折して南下すると、すぐに峠の登り道となり、その峠を越えると後は西海岸の港町であるオルモックに向けて一直線の道(オルモック街道)となる。この峠こそが、この島での最大の戦闘場となったリモン峠である。*地図参照(旅のルートとあるのは著者が辿った道程)
もう一つは、島のほぼ中央部に位置し、島の胴がくびれたようになっているところで、東海岸の町であるアブヨグから西海岸の町のバイバイ間の約20キロを通る道である。そこの脊梁山脈は低く、山地はその距離のうち約5キロである。
1934年に自動車道路が開通して、リモン峠回りの国道と共に、島の東西の交通を確保する幹線道路であったが、行政の予算不足によりその後の道路整備は行われておらず、車が通れるような道ではなかった。しかし、米軍の上陸後はこの道を整備して彼らの作戦に使用している。その道の西側沿岸の町であるバイバイに出て、そこから海岸沿いに北上してオルモックにいる、そしてまたリモン峠に向かう日本軍を挟み撃ちにして、彼ら米軍のレイテ作戦を終えようとするものであった。
グーグルマップで見ると島の南側にも道はあるようだが、当時のその辺りの情報については少なすぎるし、その方面での大きな戦闘はなかったようなので、この地域についての状況説明は省くことにする。
以上のような両軍の作戦計画のなかで、先述したように多岐に渡る作戦展開がなされ、日本軍の善戦はあったものの、大本営が12月19日にレイテ島での地上決戦を中止した。それ以降の日本軍は、16師団を除き全部隊がオルモックの北西部沿岸への転進命令がなされ、その近くに位置するカンギポット山周辺に集結した。
またそれを駆逐するための米軍も残っており、日本軍の残兵を追って北西部へ進んだ。この当時、レイテ島上にあった日本兵総数は記録によってまちまちだが、2万名はいたようである。
12月21日、レイテ島の第35軍に対し、方面軍司令官(山下大将)から「自活自戦命令」が出された。それは、今後物資の補給はできないが各自永久に抗戦を続けて生き残れというものであった。この命令に基づき、北西部沿岸に集結した将兵を対岸のセブ島、そしてネグロスなどのビサヤ諸島に渡らせる作戦(地号作戦(撤退作戦))をとったが、そのための船は極めて限られており、将兵の多くは残されたままその作戦は翌年1月20日をもって事実上終わり、その残された将兵のほとんどは全滅したとされている。セブ島に渡ることができた部隊はどうなったかについては、後のページの「セブ島での戦い」で書く。
レイテ島での戦いは、太平洋戦争でもっとも悲惨な激戦の一つであった。なによりも、日本軍の戦死者7万9千人、米軍の戦死者3千5百人、そして戦傷者1万2千人という数字がそれを示している。(表参照)
米側のある記録によると、12月の最終週に米軍が島での死体を念入りに数えた結果として、60809名の日本軍将兵が命を落としたと推定し、捕虜になったのはわずか434名だった。