マニラ市街戦

バギオへの後退

 レイテ島での戦いを終えたとした米軍はルソン島へと向かい、リンガエン湾から上陸し始めたのが1945年1月9日の朝である。その頃、レイテ決戦で兵力と物資などを消耗しきっていた方面軍司令官の山下は、圧倒的な火力をもち、制空権も握っている米軍にルソン島でさらなる決戦を挑むことは無意味と判断し、第二の首都とされていたバギオ(マニラから北へ直線距離で約250キロの高原都市)に司令部を移した(後退した)

 それは当初計画である山岳地帯での持久戦体制に近いものであったのかもしれないが、“時すでに遅し”であると山下は思ったに違いない。しかし、米軍の日本本土への上陸を少しでも遅らせるため、そして少しでも多くの米軍兵を自分らに向けさせるためにそうしたのである。

 バギオへの後退と共に、マニラ周辺に備蓄してあった軍需物資(含む食糧)を山岳地帯(マウンテンプロビンス州とカガヤンバレー地域)へ徐々に移動させたが、レイテ戦の敗北を見越していたと思われる山下は、もっと早めにそれらを移動させていた可能性がある。

 軍需物資の移動に加え、将兵と軍属の山岳地帯への転進と同時に、マニラに在住していた一般邦人へも移動を促した。その総数20万とか25万人ともされている。米軍の上陸が日々近づくにつれ、そのような移動に拍車がかかったであろう。

マニラ市街戦

 そのような山下の判断により、マニラでの市街戦を回避(一般市民を巻き添えすることを避けた)する方向を示したにもかかわらず、海軍のマニラにいた第31根拠地隊、そして陸軍所属の第4航空軍が、リンガエン湾から上陸してマニラに向かった米軍と戦ったのが“マニラ市街戦”である。

 1944年12月18日に大本営陸軍部で作戦指導会議があり、そこで「地上の陸海軍部隊を尚武司令官(方面軍司令官)の指揮下に入れる」となった。つまり、フィリピンにいる陸海航空を一本化し、それを方面軍司令官の山下の指揮下におくということであった。というのも、方面軍司令官は、第4航空軍司令官(富永恭次)、海軍根拠地隊司令官(岩淵三次)と同じ立場にあって、南方軍総司令官寺内寿一元帥の隷下にあったので、山下にとっては、これで作戦がやりやすくなったと理解して良いであろう。その観点から先の方向を示したと思われるが、彼ら(富永と岩淵)は山下のその方向に同意しなかったのである。その理由を調べると、それぞれに複雑な感情面があったようにみえる。

 市街戦は1945年2月3日から3月3日まで続き、結果は米軍が勝った。その間の戦闘のなかで、追い詰められた日本軍はある種の自暴自棄に陥って残虐非道の行為へと繋がって行き、ゲリラとの区別がつかぬまま多数の市民を殺害してしまった。

 その行為に触れるのはあまりに悍ましいが敢えて書く。市街戦最中の2月13日、海軍根拠地隊司令官の岩淵は、日本軍が掌握しているところに残っている民間人を全員殺すよう指示し、その二日後には詳細な指示をつけくわえた。それは、殺される民間人を建物に集め、そこに火を放つか爆破すればよいとし、そうすれば死体を処分する「めんどうな作業」を軽くすることができる、と。その岩淵と主要幕僚たちはどうなったかと言えば、農商務省ビルの野戦司令部で、2月26日の夜明け前に自決したとされている。

 一方の米軍の攻撃は無差別的な砲撃も加わり、美しかったマニラは壊滅状態となった。両軍のそのような戦闘により、10万人を超えるマニラ市民が巻き添えで亡くなっている。戦後、日本人捕虜に恩赦を与えたエルピディオ・キリノ大統領(在任期間:1948年4月〜53年12月)の家族が亡くなったのはこの市街戦である。