フィリピンでの日米戦は、太平洋戦争で最も多くの戦没者を出した戦いであり、そこでいくつかの大きな戦いがあったことは多くの人に知られている。しかしどこで、どのような戦いだったのか、その背景にはどのようなものがあったのかとなると、はてと、考える人が多いのではないだろうか。
ルソン島で物流業を営む私はあるきっかけにより、ルソン島北部の激戦地跡へ慰霊の旅をした。それからは自身の思いもよらぬほどに慰霊の旅は続き、その記録を書き留め、2024年11月に「マンゴーの木を探してー貨物屋のフィリピン激戦地慰霊紀行—」と題して上梓した。戦中当時のことをほとんど知らないで出かけた慰霊の旅であったが、実際にその場を見て感じるなかで、当時のことを知らなければならないと思い始めた。その後は関係する文献を読み調べ、そして他の激戦地(レイテ島、セブ島)にも興味を持ち始めて出かけた旅を綴った紀行である。
そこでこのウエブサイトでは、その本のなかから抜粋し、フィリピンでの戦いを時系列に、そして簡略して説明することにより、そのような疑問を持つ読者のお役に立てれば、そしてフィリピンについてより一層の理解が深まることに繋がればこの上ない喜びである。
さてそれでは、それらの大きな戦いをページごとに書くことにするが、このトップページでは、1941年(昭和16年)12月8日に始まった開戦時の状況はどのようなものであったから書き始めることにする。
1941年12月2日午後、「X日(作戦開始日)を12月8日とす」という意味の暗号電報が発信された。「ヒノデハヤマガタトス」が大本営陸軍部から、そして海軍は「ニイタカヤマノボレ」がその電報であった。
12月8日(ハワイは7日)の日本時間午前2時40分、日本海軍連合艦隊の空母から飛び立った航空隊はハワイの真珠湾に停泊する米艦隊を攻撃し、米戦艦4隻を撃沈させて敵基地航空部隊をほぼ全滅させたこと、そしてこの時、在米日本大使館員の不手際で宣戦布告が攻撃後になってしまったことは、広く世に知られている。日本は米国との国力の差を認識しており、連合艦隊司令長官の山本五十六海軍大将は奇襲攻撃をとったのである。
その頃のフィリピンにおいては、台湾の航空基地から日本陸軍機307機、そして海軍機444機の計751機が出撃し、米軍クラーク基地(現クラーク国際空港周辺)及び他の米航空部隊を壊滅させている。これにより、クラーク飛行場を拠点とする、米極東航空軍は開戦第一日でその兵力の過半を失い、航空作戦の大勢はすでに決していた。
一方、海軍によるハワイ真珠湾攻撃とほぼ同時に、マレー半島に上陸(英国領マレーのコタ・バル)し、そこから英国統治下のシンガポールにある英軍要塞の攻略に向けて進軍したのが、陸軍第25軍の山下奉文(やました・ともゆき)司令官(当時中将)である。この山下こそが、日本軍の敗北が色濃くなった頃に、フィリピンで最後まで戦った第14方面軍司令官であり、帝国陸軍大将であった。山下についてはこのウエブサイトで何度か登場する。
日本が米国と英国に対して同時に開戦したのは、オランダ領インドネシアの石油を奪うためであり、そのためにはシンガポールの英国軍を撃破しなければならなかった。フィリピンはその資源地帯から日本に至る輸送ルートの要にあたり、極東における米国の重要拠点であるフィリピンを押さえることは、日本にとって戦略上不可欠であった。そのような理由から真珠湾の米艦隊は、日本にとって「目の上のたんこぶ」であった。
ただ、日本が戦争を始めた理由は石油を奪うためだけの単純なものではない。それに至るまでは、さまざまな要因が複合的に絡み合っており、それを統合的に理解することは簡単ではない。
先述しているように、それぞれの戦いをページごとに書いているが、ここであらためて、順を追っての戦いの場所と要点を箇条書きにする。
1941年12月23日、本間雅晴(中将)司令官率いる第14軍が、ルソン島・リンガエン湾から上陸し、そこから首都マニラ攻撃に向かい、翌年1月2日にマニラ占領となる。しかし、マッカーサー率いる米比軍はバターン半島に移動したことで、第14軍は急遽バターン半島へ進軍して始まった戦いであり、日本軍のフィリピンでの大きな戦闘はこれが最初である。
そこでの米比軍の降伏が4月9日であり、同半島東側にある要塞化された島(コレヒドール島)が落ちたのがバターン陥落から一月ほど経った5月7日である。つまりこの時は日本軍が勝った戦いである。詳しくは「バターン死の行進」のページへ。
バターン半島での戦いからほぼ3年後の、1944年10月24日から26日までに、日本海軍連合艦隊と米太平洋艦隊が、ルソン島東北方面海上からレイテ島西南のスールー海までの4百カイリ平方におよぶ広大な空間で行われた戦いである。この頃はすでに日本軍の戦況が危うくなっており、この海戦で日本海軍連合艦隊は敗れ、その後の日本海軍の戦力はほぼ壊滅した。詳しくは「レイテ沖海戦」のページへ。
1944年10月24日から始まった「レイテ沖海戦」での、日本海軍連合艦隊を支援するためにルソン島・マバラカットを飛び立ったのが神風特別攻撃隊である。同月25日午前10時52分、レイテ島タクロバン沖にてターゲットの敵艦戦に体当たりを敢行して撃沈させた。この成功により、日本軍の攻撃は“特攻隊”での攻撃が主力となり、終戦まで続いた。詳しくは「神風特攻隊」のページへ。
1944年10月20日、米陸軍西南太平洋司令官マッカーサー大将の率いる大船団が、レイテ島東海岸の上陸から始まった戦いである。これはレイテ沖海戦と合わせて臨んだレイテ島での戦いで、大本営はこれを“決戦”と位置付け、実質最後の決戦となり、この島で日本軍は非常に多くの戦死者を出した。詳しくは「レイテ決戦」のページへ。
1945年1月9日。レイテ戦を終え、ルソン島に向かった米軍はリンガエン湾から上陸した。フィリピンを管轄する第14方面軍の山下奉文(大将)司令官は、すでにルソン島北部の山岳地帯での守備戦を決めており、米軍の上陸時には山岳方面に向かっていた。その途上での攻防戦が終戦まで続く。しかし、山間部での守りの戦いを良しとしない日本軍部隊がいた。
リンガエン湾から上陸した米軍は、ルソン島山岳部への追撃と同時に、首都奪回のためにマニラに向かった。マニラで待ち構えていたのが、山間部での守りの戦いを良しとしない日本軍の一部部隊であり、その両軍が戦ったのがマニラ市街戦である。
その戦いは1945年2月3日から3月3日まで続いた。美しかったマニラは壊滅状態となり、両軍の激しい戦闘により、10万人を超えるマニラ市民が巻き添えで亡くなった。詳しくは「マニラ市街戦」のページへ。
マニラ市街戦を終えた米軍は、彼らの捕虜となった日本軍属の尋問から得た情報により、バギオにある日本軍(方面軍)司令部の正確な位置が特定され、3月15日には低空飛行の空爆で400トンもの爆弾が投下された。これにより、その司令部は跡形もなくなってしまった。
その後の4月26日には、バギオに米軍が進攻してきたことで、バギオにいた日本軍はさらに北へ後退しながらの持久抗戦となって行く。詳しくは「山岳地帯での持久抗戦」のページへ。
1945年3月26日、マニラ市街戦を終えた米軍の一部の部隊はセブ島のタリサイに上陸してからの戦いである。セブ市街戦で敗れた日本軍は、同島北部へ退却し、以後は終戦まで守備戦が続く。詳しくは「セブ島の戦い」のページへ。
1945年8月16日、大本営が陸海軍に停戦を命じた。その直前(14か15日)には梅津美治郎参謀総長(陸軍の軍令を管轄する参謀本部のトップ)と阿南惟幾陸軍大臣(陸軍の軍政を管轄する陸軍省のトップ)との連名で、停戦命令を在外軍に発信していた。以後、日本軍将兵の投降が始まり捕虜となる。詳しくは「捕虜収容所」のページへ。